どーも

こんにちは tataです。

本日は「アートにおいて誤解は奥ゆかしい」というテーマでお話します。
言葉を選ばす言うとアートにおいて誤解されることは「良い」ことだよね、という事を言いたいのですが「良い」という日本語がどうもニュアンスが違っている感じがして、自分の感覚に近い言葉を探したところ「奥ゆかしい」という言葉に行きつきました。

伝わることがアートなのか?

音楽、絵画、写真、映像、詩、なんでも良いのですが、アートというのは表現活動をしています。表現をする立場からすると明確なメッセージや想いがあります。しかし、それを表現するにあたって説明するだけでは伝えられない何かがあります。例えば、「あなたが好きです」という想いがあったとして、その想いをたった「好き」という2文字に収められないからこそあらゆる表現方法を用いて人類は表現活動をしてきたのだと思うのです。

素晴らしい作品は、その作品からその事実以上のものを感じることが出来て、鑑賞者の心のより深いところまで感動を届かせることができます。ただ、僕はこの「伝える」「伝わる」ということに対して非常に大きな葛藤がある時期がありました。それは、本当の意味で「伝わる」ことなどあるのだろうか?という葛藤です。

「あなたが好きだ」という表現は、具体的な表現や言葉にしていけば、事実としての意味は伝わると思いますが、それはものすごく陳腐なわけです。
ありふれたことを伝えたいわけではなく、そこに詰まっている何にも変えがたいオリジナルな想いを伝えたいわけです。

そこでアートという表現方法を用いたときに、それはどうしても抽象的な表現になってしまいます。ただここに問題が発生していて、抽象的になればなるほど受け手には解釈するという余白が生まれます。つまり、抽象的にすればするほど、解釈のすべてを受け手に委ねることになります。アートという表現方法は、基本的に余白だらけなわけで、表現者の伝えたいことと乖離して「誤解」が生まれる可能性があるわけですね

かつての僕は、それが果たして良いものかどうかがわからなかったのです。

とある対談の会話から

最近、面白い動画をみました。オリエンタルラジオのあっちゃんとフルーツポンチの村上さんのYoutubeでの対談です。

毎週木曜日の19時に放送しているプレバトという番組をご覧頂いている方は、村上さんの俳句の才があることはご存知だと思います。三省堂より2021年度に出版される予定の中学三年生の国語の教科書『現代の国語3』に村上さんの句が掲載されることが決まっており、番組外の自身の活動でも句会に参加されて、俳句はご自身の活動の中で大きな位置を占める割合になっているとのことです。

この対談の中で俳句について語られる部分があるのですが、村上さんは「自分の主観をそこ(俳句)に詰め込むものではなくて、客観的に自分はこの角度からみた映像をどれだけ詠んでくれた人にも立体化させてあげれるかを言葉で達成するかが大事」と仰っています。つまり、俳句にするということは表現者が何かを想って、それを表現したい、何かを伝えたいと思ったことが揺るぎない事実で、その想いや主観などは詠んだ人が描写した映像から感じてくれればいい、という事なんです。

ここに僕が葛藤していた「伝える」「伝わる」の答えがありました。

また、この対談動画にはまさにこのテーマの具体例がそのまま出ていて、村上さんが作った俳句に対して、村上さんがどう感じてその俳句を詠んだのか、また、あっちゃんがその俳句を感じたのかを話している部分があります。

その会話の部分を抜粋します。ちなみに村上さんが詠んだ句は以下です。

「君の足 這う蟻のこと教えずに」

村上「蟻っていうのは夏の季語なんだけど、要は君という好きな人の足に蟻がいるということだけなんだけど、なんか、それを見つけれるという事自体がその人を見ているという感覚だし」
あっちゃん「確かに」
村上「蟻に自分を投影させては、蟻はあの人に平気で触れている、侵略していってるという憧れもあるし」
あっちゃん「そこなんだ。へぇ〜」
村上「「蟻が今、付いてるよ」って言うと、2人で喋っている時に会話が止まっちゃうじゃない?」
あっちゃん「確かに、それはそう」
村上「だからあえて言わないでおく。このあなたと喋っている時間を続けたいとか、まぁ色んな要素なんだけど」
あっちゃん「でも、本当にそう考えたら、聴いている人と詠んだ人で違うことを想像してるかもしれないんだけど、なのに感動させるってすごいね」
村上「前半にも言ったけど、俳句は映像にすればするほど良くて、ここに僕が主観とか説明を入れてしまうと相手の想像力を奪うことになっちゃうから」
あっちゃん「ほんとそうだね。なんか全然押し付けがましくなくて、それを聴いた瞬間。これ俺の句かな?って思っちゃったもん」
村上「嬉しい」
あっちゃん「ムラケンの思い出話を聴いた感覚が全くなかった」
村上「そういうことなんですよ」
あっちゃん「知らしめさせられた。僕が想像した蟻とその子は。僕の中で君は寝てたんです。部屋の中で寝てて、日が射してて、パッとみたら、で、もう付き合ってんだよ。もうその子とは。で、付き合ってるその子の足に「あっ蟻だ」。でも、じっと見てるっていう感じ」
村上「それも素敵」
あっちゃん「幸せな時間っていう感じ。起こすまでもないし、払うまでもない、というか蟻だから害もないし、でも蟻が這うこともあるよなっていう感じで愛でてるって感じで」
村上「素敵です」
あっちゃん「それが俺に入ってきたんだけど、あっと思って、そっか、話していることもあるのか、だから(話を)止めたくないとかもあるよな、とか全然違うことを想像していたのに、同じ句で「いいな」って2人が思えたこと自体がすごいし、そこに村上をまったく感じなかった。俺の物になってた。その句が」

伝わったものは何か?

2人の会話から分かるように「伝えようとしたこと」と「伝わったこと」が全く違うわけですね。村上さんは片思いの君に対する想い、あっちゃんは付き合っている君に対する想い。具体的な事象に置き換えるとまったくの誤解です。ただ、「全然違うことを想像していたのに、同じ句で「いいな」って2人が思えたこと自体がすごい」とあっちゃんが言った様に、そこには共通して愛する人へ想いを馳せる「美しさ」みたいなものが共有されたのではないかと思うのです。

アートが表現活動を通して伝えるべきことは主観や説明ではなく、その奥にこっそりと隠れている「美しさ」なのではないか、と思うのです。また、この対談の素敵なところはあっちゃんの感じたことについて、俳句の作者である村上さんが「その受け止め方も素敵だね」と、誤解を許容しているということです。

そもそも論として俳句自体が12音しかなく誤解を許容する形態であるという事ももちろんあると思いますが、本質的にどんな形態であれ、どう解釈するかという余白を表現者側が作っている以上、誤解を気持ちよく許容する余裕があるべきなんだと思います。

例えば、クラシック音楽を聴くときに多くの人は身構えてしまいます。それは、この音楽をどう解釈するのが正しいかを決められている様に感じるからだと思います。通常、表現者はこういう想いで作ったと語れば、それが解釈として「正しい」とされてしまいがちになります。

あっちゃんがしきりに「ムラケンの思い出話ではなく、全然押し付けがましくなくて俺の物になった」と語っていることに大きな意味があって、受け手が感じた「美しさ」こそ大きな意味があります。

表現者は誤解されることを恐れず、受け手は誤解することを恐れない。
二人の対談のように、僕はこんな気持ちで作ったんだよ。この作品は僕にとってこんな風に感じたんだよ。と、同じ土俵で語られることが何より素敵に感じました。

「アートにおいて誤解は奥ゆかしい」
今日はそんなテーマのお話でした。

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