全体とは

言葉がこの世界を創造しているという視点を言葉の分節化によって成し得ているというお話は以前の記事でした事があると思います。

もちろん、この文脈で指している「言葉」は音楽や絵画、すべての表現活動を含めたものと理解してください。記号論の前提では、文字ではない「テクスト」を読んでいる、という事になります。

つまり、分節化は文字だけではなく音楽や芸術なども含めたすべての表現によってなされる事であり、芸術という営みはまさに全体からなるべく多くの事を切り取ってこようとしている行為なのです。芸術は無から何かを創造するイメージがあると思うのですが本当は逆で「全体」から切り取ることによって新しいものを創造しています。

この「全体」という言葉はかなり重要な単語なので、さらっと読んでしまっては駄目なんですがこの言葉を他の言葉に置き換えると

  • ・混沌
    ・宇宙
    ・闇
    ・無知
    ・天地創造の以前の世界
    ・無限

という言葉が近いと思います。なんとなくいろんな角度の単語から焦点をあてることによりどんな事を指しているかを考えてほしいと思います。この文脈で
新約聖書のヨハネの福音書に書いてある

  • 「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった…」

という言葉をどう読むことができるのか、言は、ギリシャ語のロゴスの訳があてられている訳ですがこのロゴスというのは、概念、意味、論理、秩序づけるなどの意味を持ちます。以前にもお伝えしましたが「初めに」と書いてありますが、この「初め」っていつなのかというとこれは天地創造の前ですからね。

つまり、混沌としている秩序のない世界から神は言葉によってこの世界は秩序づけられたと読む事ができます。僕はキリスト教徒ではないですが、概念としてこの聖書の言葉が意味していることは理解できます。

フルトヴェングラーの言葉

ドイツの指揮者にフルトヴェングラーという指揮者がいたのですが彼の「音と言葉」という著書の中の「偉大さはすべて単純である」という章の中で彼は、芸術について、この様に言っています。

  • 「芸術家の生とは、創作にはげみ、それぞれの作品の「有限の」有機的な形成を通して「無限の」創造的な自然を盛り込むことにほかならない。彼が必要とするものは一方では「全体」の直観という恵みであり、他方では、この直観を生き生きと血に通った現在のなかに引き込み、それを作品の現実のうちに呪縛する強靭な力である」
    (フルトヴェングラー 芦津丈夫 訳 1996年 「音と言葉」白水社 269頁)

とても抽象度の高い難しい文章ですが、これまで僕が説明してきた内容を理解していればなんとなく意味はわかると思います。「有限の」有機的な形成、というのは、僕の文脈でいうと音楽や絵画なども含めたすべての表現となり、「無限の」創造的な自然、や「全体」というのは、さきほど説明したところですね。

つまり、芸術家は、「全体」という混沌としている世界から、直観によって「全体」を掴み、作品という有機的な形になるべく多くのものを詰め込む強靭な力が必要だ。と言ってる訳ですね。小さいお弁当箱の中にこの世のすべてを詰め込む
そんなイメージです(笑)

そんな力が自分にあるかどうかはさておき、芸術家が無から何かを創造しているのではなく「全体」というものから、何かを切り取って、作品という小さい箱の中にできるだけ多くのものを詰め込もうとしている、というのは、理解できると思います。

これは、芸術家だけでなく、普段の我々のコミュニケーションでも同じことが言えるわけです。例えば、「好き」という言葉がありますね。あなたも誰かを愛するという経験はしたことがあると思います。その気持ちを相手に伝えたいと想ったときその想いはたった2文字の「好き」という言葉に収まりますか?

溢れんばかりの想いを切り取ってたった2文字の「好き」という言葉に収めているわけですね。いや、収めるしか手段が存在しないのです。芸術家が行っていることは、何も崇高なことでもなくこの様な現実にありふれる素朴な事を真剣にやろうとしているだけなんですね。

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