たったひとりのために…

僕が演奏する時に、とても大切にしている考え方があります。その考え方とは常にたった一人のために演奏するです。この考えは、tataのサックス講座を始めた時に「天国の本屋 恋火」という小説の一節を紹介してお伝えした事があります。今回は、もう少しロジカルに大勢の前で演奏しても一人に向けて演奏する意味を考えていきたいと思います。

大勢の人が聴いていても、常に一人に向って演奏するんです。ちょっと、不思議ですよね。僕の場合は、実在する人物に対してこういう想いを伝えたいと思って演奏する時もありますし、そうでない場合は、聴き手の属性をイメージして一人の人間へ向って演奏しています。

例えば、児童施設で訪問演奏をすることになったとします。その児童施設にいる一人の子供をイメージして自分の中に、子ども像を創り上げます。そして、その子に向けてプログラムを構築したり、その子に向けて演奏をします。なぜ、こんなことをするかというといくつか理由はあるのですが、そのひとつは伝える人の顔をしっかりイメージするためです。

対象者が複数になると、顔がぼんやりしてきて見えなくなるんです。結局、誰に何を言っていいのかわからなくなるんですね。音楽を聴く側もみんなに向けて演奏していると思ってしまえば聴かないと思うんです。聴こえていると思いますが、心までは届かないと思います。聴き手にとって、その音楽が自分と関連性が
深ければ深いほど心に残る音楽になります。

私とあなたという関係

人は自分に向けられたメッセージ以外は、他人事として聴いてしまいます。それでは結局、何も伝わらないんですね。大勢に向けて演奏すると、伝えたい想いもパワーも分散します。ひとりに向って演奏すると、すべては1点に集中するんです。

例えば、僕はこのメッセージは他の誰でもないあなたに向けて書いています。でも、同じ内容のメッセージをあなた以外の人もたくさん読んでいるんですね。では、本当はあなたに向けてこの文章を書いていないのか?と言われるとそうではないです。本気であなたに向けて書いているんです。このカラクリが分かりますか?(笑)

僕が一人の人に向って書くとき読み手が何人いても、最終的にはみんなその『一人』になってくれるということです。音楽の演奏者と聴き手の関係は「わたし と あなた達」ではいけません。常に「わたし と あなた」でなければならないと思っています。もし、自分だけのために誰かが演奏していると思ったらどう思いますか?

うれしいですよね?それはもう上手いとか、下手とかでなくて自分のために一生懸命に練習してくれて、必死になって演奏してくれることが何より嬉しいし、感動すると思います。届けたいという想いが強ければ強いほど、必死になって練習します。それは、メッセージを届けるべき相手がいるからなんですね。

この一人のために演奏するというのは、プレゼントを贈るときの心境と似ています。プレゼントを選ぶときって、ものすごく悩みますよね。何が欲しいのか、何が似合うのか、何を貰ったら喜ぶんだろうって何軒もお店を回って、何時間もかけて…(笑)とりあえず、相手のことが気になってしょうがない。その想いが強ければ強いほどそれはもう必死です。

相手の喜ぶ顔がみたいと想うと、自分の事は、なり振りかまっていられなくなります。こーゆー心境の時の方が必死に練習するし、自分の想いが1点に集中するんですね。目指すはこの状態です。このあり方が音楽を演奏する心構えとして
とても大切だと思っています。たくさんの人に認められたいと思うから、それに見合う演奏の上手さや自分の価値を求めてしまいます。

こういう時のベクトルは、相手ではなくて自分に向いています。自分がどう見られたいかという所に焦点があたっているんですね。そんな音楽は誰も聴いてくれません。例え、上手く演奏できても、『すごいね』で終わってしまいます。そうではなくて、相手本位の演奏でなくてはなりません。

もちろん、気持ちがあればテクニックは必要ないなんて言うつもりは毛頭ないです。練習もしないで『音楽は心だ』なんて言っている人は勘違いヤローです。練習は必要です。伝えるためにはテクニックも必要です。そりゃー必死ですよ。本当の意味で自分の気持ちを相手に伝えるときってどれだけ大変か。決してフワフワしてるものではないのです。実際、やることは細かい練習の積み重ねです。簡単に上手くなるなんてありえない。

しかし、細かい反復練習を繰り返していると、いつの間にか目的を失ってしまいます。だからこそ、演奏するにあたって、すべてを支える土台として、これらの意識があるのとないのでは、雲泥の差があります。

具体的に誰なのか?

さて、一人に向って演奏すると言ってもさっきの児童施設の様に演奏する場所や目的がはっきりしている場合はイメージしやすいと思います。伝えるべき相手が明確な場合はそれでOKです。でも、一般的なステージや練習段階だと、どんな人をイメージしたらいいのか悩みますよね。具体的にどういう人をイメージしたらいいか僕のお勧めは、3通りあります。ひとつめは、好きな人。好きな人というのは、恋人でもいいし、結婚している人であれば旦那さんや奥さんでもいいです。

ふたつめは、親、もしくは自分の子供。これも大切な人という括りに入りますね。自分の親、もしくは自分の子供にどうしても音楽で伝えたいことがあります。あなたは、手を抜きますか?抜きませんよね?フワフワしないとはそういうことです。

そして、みっつめは自分自身です。ちょっと意外だと思いますけど、自分自身とちゃんと向き合って自分に対して出したメッセージには嘘はないですからね(笑)この3パターンだと自分と近過ぎて、オーディエンスである第3者は全然反応しないのではないかと思うかもしれませんがそんな事ないです。

なぜなら、あなたの想いに共感するからです。好きな人に向けられたメッセージ
親・子供に向けられたメッセージ、自分自身に向けられたメッセージ、どれもあなたの想いに共感して、自分と重ね合わせて聴くことができるんです。だから、聴き手は自分へのメッセージとして受け取ることができます。

以前の書いたコミュニケーションのスタイルという記事で音楽によって伝わることは言葉の指示対象ではなく、『意味』に重点が置かれているというお話をしました。そして、伝わる「意味」はあなたの関係性やその場の状況に依存しているとお話しました。

これをもっと噛み砕いて言うとその『意味』は、聴き手が変われば伝わる『意味』も変わるということです。つまり、その『意味』に正解はなくその『意味』の解釈を聴き手に委ねているということです。

第3者が聴いても、あなたの想いに共感することができれば自分とその作品を重ね合わせ、聴き手にとって特有の『意味』が生まれます。自分が出した音は、音を出した瞬間から自分の元を離れていき、その音楽が持つ『意味』が聴き手にどう『解釈』されるか、それは、僕達、演奏者にはわかりません。

相手本位でなくてはならない、 といったのは、本質的に伝えるという行為は、最後は相手が決めるものだからです。最終的に音楽の価値ってどこにあるかと考えた時にどれだけ上手い演奏したかではなく、どれだけ売れたかでもなくどれだけ他人に影響を与えたか…だと思います。

どんなにつたない演奏でも、たった一人のために奏でられた演奏はその人にとっては、宝物になるはずです。